2012年御翼12月号その1

希望、喜び、平安、力

上智大学教授のアルフォンス・デーケン先生が、『心を癒す言葉の花束』(集英社新書)の中で、モーツァルトに関するエピソードを記している。

はっきり言って、死は確かに人生の最終の目的なので、数年来私は、人間の最良の友である死に親しむことを、自分の務めだと思っています。そのためか、私はこの友のことを思い出しても、別に怖くはなく、むしろ大きな慰めと安らぎを覚えているのです。 ヴオルフガング・アマデウス・モーツァルト

 これは、モーツァルトが三十一歳のときに、父に宛てた手紙の一節です。
 彼の一生は三十五年という短いものでしたが、その約三分の一にも当たる十年あまりを、旅先で過ごしました。旅を通じて、未知の世界の風物や人物と触れ合うことで、彼の才能は豊かに開花していったのです。その一方、馬車での長旅は過酷なもので、モーツァルトは幼いころから何度も旅先で重い病気にかかり、死の危険にさらされてきました。彼が若くして死んだのは、度重なる旅行が原因だという説もあるほどです。
 しかし、敬慶なカトリック信者だったモーツァルトは、死を「最良の友」と呼んで親しんでいました。死はすべての終わりではなく、天国への門、永遠の幸福への門であると信じていたのです。モーツァルトの音楽の基盤には、こうした死の哲学が息づいています。
 死を想うとき、潜在能力(ヒューマン・ポテンシャル)が目覚め、人は誰でも、後世に何かを遺したいという欲求を持つものです。この欲求は、普段は意識下に埋もれています。しかし、死を強く意識したとき、呼び覚まされるのです。
 死への想いが深まって自らの有限性を自覚するとき、生の喜びがほとばしり、素晴らしい創造性が発揮されるのでしょう。モーツァルトの音楽は、ただ壮麗なだけの生の讃歌に終わらず、時空を超えて、現代に生きる私たちの心を新鮮な深い感動で満たしてくれます。
 先の手紙は、「真の幸福の鍵である死と懇意になれる機会を与えられたことに、私は感謝しています」と続きます。この神への感謝の念が、天使の音楽とも称されるモーツァルトの珠玉の作品を生み出したのではないでしょうか。
 私は長年、終末期患者のQOL(quality of life=生活の質)を高めるセラピーとして、音楽療法(ミュージックセラピー)をすすめていますが、患者さんからモーツァルトの曲のリクエストが多いのも事実です。私自身、人生の転機に、モーツァルトに救われた体験があります。
 ドイツ・ミュンヘンでの大学時代、病院でボランティアとして働いていたときのことです。宿直の医師から急に、ある患者さんの臨終に付き添うよう、頼まれました。初対面のその人は、まだ三十代の男性でがんの末期でした。東欧からの亡命者で、身寄りがなかったのです。私は彼のベッドの脇に座り、話の糸口を探しました。
 天気や政治、スポーツといった日常的な話題は、彼にはもう何の意味もありません。死を目前にしたこの人にとって、何が永続的な価値を持つのか、どうすれば心の平安を与えられるのか……。私は困り果てました。何もしてあげられない自分の非力さに打ちのめされた私は、必死に考えを巡らせて、ふとレコードをかけることを思いつきました。選んだ曲は、モーツァルトが死の間際に作曲したという「レクイエム」。この曲ほど、死を前にした悲しみや苦しみと同時に、永遠の生命への希望が生き生きと表現されているものはないと思ったのです。
レクイエムが静かに流れる病室で、私たちは共に神に祈りました。美しい調べに聴き入っている彼の顔はとても安らかで、私はかろうじて自分を支えることができたのでした。この患者さんが亡くなるまでの三時間は、私の人生でもつとも長い三時間でした。この経験がきっかけで、「死生学」を私のライフワークにしようと決意したのです。レクイエムが、私に天啓をもたらしてくれたのかもしれません。 希望の源である神への信仰により、死に直面しても、平安で満たされ、良いことを遺すために、創造性が増したのがモーツァルトである。 先週の教会学校で、「クリスチャンとして一番大切なことは何ですか?」と先生に尋ねられたとき、高校一年の娘・知香が「互いに愛し合うこと」と答えたという。確かにイエス様は、最も大切な戒め、全てを包括する戒めは、神の愛をもって、隣人を自分のように愛することだと言われた。これで、教会をたててよかった、と確信させられた。 私たちは、どんなことを遺したいと思っているだろうか。

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